ひとつの不祥事が回復できないほど評価を失墜させることがある。たとえば、雪印や三菱自動車の隠蔽工作、そして警察や教師の不祥事等々。人物評もまた然り。ひとつの行動や施策の失敗が後々の評価に多大な影響を与えることとなる。ところが、複数の失敗がひとつの快挙で隠れてしまうケースもあるのだ。この典型的な例が、徳川綱吉と前田正甫(まさとし)。江戸の元禄時代を生きた2人の人物だ。
 前者の徳川綱吉は徳川5代将軍。この人物は“生類憐れみの令”を発令したとんでもない将軍様という評価が一般的。とはいえ、実は湯島聖堂を開設し学問を奨励した人物でもあり、江戸時代の学問普及に多大な影響を与えたという事実はあまり知られていない。まあ、ひとつの愚令が人物評を完全に貶めた、典型的なケースである。
 一方、富山藩2代目藩主・前田正甫(まさとし)は綱吉とは全く逆のケース。この人物、有名な“富山の薬売り”を興した名君として誉れ高い。多くの書籍やホームページなどでも、当時としては高価だった薬を庶民に普及させた功績を絶賛している。だが、実像は評価と随分と異なるのだ。以下にこの人物が行った所業を列挙してみよう。
@延宝6年(1678年)、農民の妻を略奪。「妻を帰して欲しい」と訴頼した一族を皆殺し(「婦負郡本法寺過去帳」)
A延宝7年(1679年)、飢餓に困窮する領民を尻目に多額の費用で遊覧船建造(「吉川随筆」)
B元禄14年(1701年)、希代の大洪水で多くの領民が家屋を損失。この状況下において、江戸下足敷の普請を強行。多額の祝儀費用による盛大な祝宴を催す(「吉川随筆」)
C元禄14年、あまりの財政難から藩札発行。しかし、宝永元年(1704年)、3年続きの大洪水による大飢饉の最中に藩札引替の差し止めを通達。藩内に大恐慌を引き起こす。
。この他にも、“江戸大地震で秘蔵の道具類が焼失した責任として、江戸屋敷責任者を処刑(「吉川随筆」)”等。挙げ句の果てに、自らの浪費により財政を圧迫し続けた借金大王という記録もある。
“富山の薬売り”に関しても、江戸城にて腹痛に苦しむ他藩主に薬を差し出したことが“富山の薬”を有名にしたとされている。だが、この薬とて病弱な自分のために他国から名医を呼び集めて研究させていたという説が有力。で、この人物の評価が高めているのが、他藩での商売を許可する“他国商売勝手”の触れを発したこと。これが、後々薬売りを全国規模に発展させた。しかし、これとて財政難に窮して、“背に腹はかえられない”的な施策だったように思える。「農業と出稼ぎで一石二鳥! 借金返済!」みたいな。
結局、真相は藪の中だが、歴史もこんな穿った見方をしてみると意外に面白いもんだ。(紀)
もっと詳しく富山の薬売りを知りたい方は
http://www.iijnet.or.jp/KUSURI/がオススメ。